時刻制度

時刻を表すには“定時法”と“不定時法”があります。
前者は1日を昼夜を問わずに24等分したもので現在私たちが使っているものです。
後者の“不定時法”は、日の出前の薄明から日没後の薄明までを正午を中央に12等分し、日の入り後の薄明過ぎから日の出の薄明になるまでを12等分したものです。

“薄明”というのは、太陽が地平線下にあっても太陽光が大気中の水滴やチリを照らして薄明るくなっている状態をいいます。
太陽が地平線下にあるのに薄明(注2)を日中に入れる理由ですが、不定時法には、“人間のみなす1日(注1)”という理念があるので太陽光が直接世界を照らさなくても人間が活動できる明るさがあれば日中に入れるのです。

では、日没後の薄明が過ぎてから日の出前の薄明までは誰の為かと言えば、ご想像通 り、神の時間です。
神を祭ったお祭りが宵宮から始まり、祭りの最後に神を天に送るのが夜が多いのも、人間と神の時間が不定時法によって分けられている為だそうです。

不定時法は自然に則しているためにその起源は古く、紀元前25世紀頃、エジプトでは昼夜をそれぞれ12等分する不定時法が使われていたようです。
前25世紀のエジプトと言えばピラミッドが建造された時代です。

次に、昼夜を12等分した理由です。
12でなくても構わない訳ですが、(後述しますが、4に分けていた所もあります)
“月の満ち欠けが12回繰り返されると太陽が元の位置に戻る”ということから、“12”が使われたのだと思います。

というのは、古代は“月”が絶対的な地位を占めていました。
その民族の繁栄にとって欠かせない子供は、 「月の神が選ばれた女性を妊娠させることによって授かり、月が満ちるにつれてお腹が膨らみ、満月の日に出産する」と信じられていたのです。

逆の思考で、吉星である木星の公転周期が約12年、黄道にある星座が12、というように、古代人にとって12が完成された循環を表す数だから昼間を12に分けたとも言われますが、月から12が出て、それに合わせて木星が最大の吉星になり、黄道に12星座が作られたという方が正しいように思います。

紀元前5~4世紀に隆盛を誇ったピタゴラス学派(注3)的な考えを採れば、対極である数“2”に和解をもたらす数“3”に、物質界を秩序づける数“4”を掛けて出来た吉数が“12”かも知れません。
“2”は、天と地、善と悪、男と女のように正反対を表します。
東洋思想の“陰陽”です。
“3”は、対立している2つ間に仲裁に入ると3になります。
“4”は東西南北の方位が4、手足を合わせると4、というように多い数と考えられました。

一方の“定時法”はというと、個人が時計を持てない時代において、季節に関係なく時を告げる定時法は不便なものですが、定時法の歴史も古く、古代バビロニア帝国(前3千年頃)にまで遡ります。
バビロニアでは天文学の発展のために、「バビロニアの2倍時間定時法」といわれるものが使われました。
12の2倍の24で一昼夜を等分にするというものです。

紀元前539年バビロニアは滅びますが、文明を受け継いだギリシアでは、エジプトから不定時法、バビロニアから定時法が伝わり、市民生活は日時計による不定時法、天文観測用に定時法が使われました。
しかし、この時代の定時法は或る日の正午を0時とし、翌日の正午を24時とするもので、これは、天動説を完成させた2世紀の天文学者プトレマイオスが定めたといわれます。

キリスト教世界では、天動説を完成させたプトレマイオスの影響は強く、天文学者は1924年まで正午を0時とする時刻を使っていました。
今でも、夜中に日が変わるのを嫌ってか、世界時0時+12時を基点に計算する式があります。

このように西洋に於いては不定時法と定時法が使い分けられて行きますが、7世紀に入ると、昼夜をそれぞれ4つに分けただけの“祈祷時刻”が教会の鐘によって報じられ、昼夜をそれぞれ12等分した不定時法は衰退しました。

西洋で定時法が市民生活に浸透したのは、13世紀末に興ったルネサンスから時を経た14世紀後半、機械式時計が出現してからです。
機械式なので定時法です。

日本においては、前号で触れた水時計“漏刻”によって時刻制度が始まった
とされていますが、本来は定時法の水時計の目盛りを変えることによって不定時法にしていたのは前号に書きました。

日本人は外国の技 術を導入して日本型に合わせるのが得意と言われますが、機械式時計の技術が導入された場面でもこの得意は生かされて、西洋の様に定時法を広めるはずが、従来の不定時法に時計を合わせてしまいました。
この時計が“和時計”といわれる物です。

けれど、西洋において市民生活用の不定時法と天文観測用の定時法があったように、日本でも同様の使い分けがされ、旧暦最後の暦である“天保暦(1830)”以外は全て定時法によっています。

西洋式(ドイツ式注4)定時法が施行されたのは、明治6年1月1日(旧暦明治5年12月3日)で、当時の時刻は、真太陽時による地方時でした。
明治10年頃、電信設備が普及し始めると、東京の地方時が全国の電信局で用いられましたが、明治20年までは政府官署などは京都地方時を標準時にしていたようです。
現在の東経135度線上を時刻の標準にしたのは、明治17年米ワシントンで開催された「本初子午線計時法」会議によります。

注1:人間のみなす1日
この表現は16世紀以来日本人司祭を養成する為に使われた自然学の教科書  “二儀略説”に拠るが、日の出を1日の基点にして日没で人間の1日が終わる
という考えは古代人の一般的な思想だったらしい。

注2:薄明
貞享暦(1684年)では、薄明は日の出前と日没後0.025日(約36分)と定めれましたが、寛政暦(1789年)では、太陽が地平線下7度21分40秒の点に到達した時と改められました。
百年の間に観測方法がここまで向上したのですから驚きです。

注3:ピタゴラス学派
ピタゴラスの定理(三平方の定理)で有名なギリシアの哲学者・数学者・宗教家であるピタゴラスを信奉した集団

注4:ドイツ式定時法
機械時計が発明された当初は、1日の始点を夕方にしていました(イタリア式)
ドイツ式は現在の様な時刻制ですが、最初にドイツ式を採用したのがイギリスです。