歳時記 桜

2009年4月、今春はいつになく天候不順だった。
例年なら確定申告が始まる頃になると日中は暖かくなるものだが、今年は真冬のように寒い日が続き、4月1日になっても冬物のコートを着た。
それでもソメイヨシノは例年の様に咲き、一こまの風景写真を残して散っていった。
『富岳百系』の太宰治風に言えば、「桜は偉い」。
太宰が富士山と彼自身を比べたように、と言ったら尊大に過ぎるのだが。

桜と言えば、「桜の木の下には屍体が埋まっている」という件が有名だ。
不勉強な私は、「桜」と聞いて、ロシアのチェーホフの『桜の園』に出てくるのだろうか、と思ったものだが、この件は、梶井基次郎の小説「桜の樹の下には」の冒頭に出てくるのである。
梶井は屍体が埋まっていると考える根拠を
「桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか」
と続けている。
この、二千文字もない短い小説は、冒頭の件だけが独り歩きするほどに有名なのである。
それは何故だろうか?

桜に限らず、植物は生命体が腐ったものを吸い上げて新しい生命体を創り上げている。
もちろん、その生命体には我々人間も含まれていたのであるが、いつからか、我々は我々の肉体が再び新しい生命体になることを拒むようになった。
我々は自身の肉体が持つ殆どのエネルギーを荼毘に付すという形で無意味に放散させるようになった。
それは殆どの宗教が生まれ変わりを否定して、死後は神や仏の許に、天国に行くと説くからなのであろうか。

桜は古代から日本民族の心に繋がっていた。
こんな所に植えて誰が観るのであろうか、と思われるような田園に桜が花を咲かせていることがあるが、農耕民族である我々の先祖は桜が咲き始めると1年の糧を得るための農作業に取り掛かったのである。
人々は桜の木には神が宿ると考え、豊作を祈願して桜の下で神を祀ったのである。
そして、桜の散り際が、たぶん、不幸なことに、神のご加護を受けて生きている我々の死生観まで創り上げてしまった。
桜の花びらが綺麗な内に自ら散るように、汚れてもなお生きながらえるよりは自ら死を選べと。

我々は自らの肉体が新しい生命体になることを拒む一方で、汚れを恥じて死を選び、神が宿る桜になって再び綺麗に咲くことを願望しているのでは無いだろうか。
だから、「桜の木の下には屍体が埋まっている」という件が我々を引き付けるのでは無いだろうか。