小田原から見える富士山に思う

太宰治は『富嶽百景』の中で
「実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
たとへば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、 ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧あこがれてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、
そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、
そのことになると、多少、心細い山である。低い。裾のひろがつてゐる割に、低い。
あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。」
と言っています。

私小説家特有の、太宰治のちょっとひねた心情がそう言わせているのでしょうが、
かぐや姫の『竹取物語』にも富士山が出てくるように幼いときから富士山は「ワンダフル」だと洗脳されていなか?
と、問われれば正直なところはっきりと否定することが出来ません。

2018年3月4日、例年以上に寒かった冬がようやく終わったと実感させるような気温が20度に届く暖かい日、
東京湘南ラインの普通電車が鴨宮を過ぎて終点の小田原駅に向かっているときに、軌道音だけが聞こえていた車内に数人の女性たちの歓声が響きました。
彼女たちの視線を追うと、雪をかぶった富士山が小さく見えました。
秋から春先の空気が澄んだ日には富士山がはっきりと見えるのです。
しかし、私が見慣れた、NHKテレビの天気情報でしばしば映される、河口湖や東京スカイツリーからの裾野の広がった富士とは違い、 裾野は山々や街の建物に隠されて、太宰の言うように大した山には見えません。
けれど、子供の頃から洗脳されている為なのか、富士山は富士山で、山々や街の建物から抜け出て見えることに時めき、隣席の奇異な視線も構わずに写真を数枚撮りました。
小田原市東海道線車窓から見える富士山
小田原市東海道線車窓から見える富士山2

ところで、山岳地図ソフトで有名な「カシミール」で展望シュミレーションを行うと、視線を遮る建物や木々が無ければ鴨宮から小田原に限らず富士山が見えることに判ります。
下記は藤沢市から富士山を望んだときのシュミレーション画像
カシミールによる藤沢から富士山を望むシュミレーション画像
時々に人という背の低い動物の視線を遮る物は数多くあるので、東海道線沿線の街が宿とか村とか言われた頃、 今よりも富士山がよく見えたかは判りませんが、富士山は誰が見ても富士山と判別できる特徴的な形をしています。
夜空に輝く星座で言えば、天文マニアで無くても容易に判る、カシオペア座やオリオン座、北斗七星の様に山好きで無くても富士山だと判る形をしています。
そして何より、富士山のなだらかに徐々に高くなって行く形は疲れた人にも嫌味を感じさせないものです。
うつ病を患っている人に「頑張れ!」と言うのは逆効果で、最初は沈んでいるうつ病患者に同調して沈んだ気持ちで接し、徐々に気持ちを持ち上げて行くようにするのが良いと言います。
音楽を聴かせるならクラッシック音楽に多い、最初は物静かで徐々にテンポが早くなり音量が増すものが良いのです。
(ただし、脳神経細胞に器質的異常がある重度なうつ病・躁うつ病患者には一時的な対処療法です)
と同じ様に富士山はなだらかに高くなって行くのでよいのです。
太宰が言うように、今より1.5倍高かったら日本一高い山というだけで終わったかも知れません。 日本各地に地元の○○富士が在るように、富士山は、日本一高いという冠だけで無く、「のろくさと拡がった」あの形がよいのです。