身近な自然と科学

協調か闘争の末か?

ダーウィンの『自然淘汰説』は、生物間同士の競争、自然環境との戦いに勝ったものだけが生き残れる、生き残っている。というものです。
私は単純なので直ぐに肯いてしまうのですが、「新・進化論(平凡社)」“THE NEW BIOLOGY:DISCOVERING THE WISDOM IN NATURE”の著者は、以下のような観察例を引用して自然淘汰説に異議を唱えています。

草の類は、根が浅いため、地下深くにある水脈まで根を伸ばしている高木とは争っていない。広葉樹林の林床に生える植物の多くは、樹木が葉を茂らせて林床に注ぐ陽射しを遮る前にその年の成長を終えてしまう。
狭い土地に何千もの実生(たね)が芽を出しても殺し合いはおきず、ただ、日光・栄養・水を分けているので全体の成長が少ないだけ。
雑草がはびこって園芸植物を駆逐してしまうのは、園芸品種の栽培時期が悪いか、気候が適していないだけ。
~植物学者フリッツ・ヴェント

イギリスに棲息する2種類の鵜(鵜飼に使われる水鳥)は、生活が似ているのに一方は小エビと小型のヒラメを食べ、 もう一方は、小エビと小型のヒラメ以外の雑多な小魚を食べていて争っていない。

チーターの殺した獲物をライオンが横取りすることはしばしばあるが、戦いは起こらない。(ライオンはチーターよりはるかに大きい)

キリンのオスは一撃でライオンを蹴り殺せるが、競争相手のはずのキリンを蹴ることはない。

渡り鳥は、同じ空間・食べ物で争わないように季節により居場所を変えている。

牛の胃に棲息するセルロース分解バクテリアは、牛が草を食べられるようにしていて、このバクテリアが居なければ牛は生きていけない。

その他、数十の例をあげ、競争が起きるのは実験室内だけで、自然は協調共生していると論じています。

また、この本の著者は、“競争相手が居ない種は爆発的に増える”というダーウィンの説を以下のようなことから欠陥とみなしています。

自然観察研究によれば、多くの動物で、繁殖に参加できないオスを群内に持ち繁殖数を調整している。また、食物の量に応じて産む卵の数が変る。

個人的にはいくら例をあげられても私はこの本の著者には同意できません。
みなさんはどう思いますか?
劣悪な環境でも生き延びられるように進化したものだけが生き残っている、と考える方が解りやすいし、自然だと思います。
人間を例にあげるのが適当かどうか判りませんが、簡単な仕事で高収入を得ている人の下で、重労働で低賃金の人が働いている場合で考えたらどうなるのでしょう?
同じ労働で数倍の格差のある正社員と派遣・パート。
低賃金の人だって高収入を得たいはずです。
人間社会の長い闘争の末、法律に則らない“下克上”は無理と諦めて低賃金に甘んじているのが現実です。これを協調と見るのか?
「人間と自然界の動植物は違う」と言われれば、それまでなんですが、人間だけ違うというのも高慢でしょう。

ダーウィンの『種の起源』の発行に当たった編集者は、『人間社会同様、自然は美しいものではなくなった』と言ったそうです。